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動き出した「樂園」 沖縄流グローバルDNAで挑む(下)
糸数剛一 株式会社リウボウホールディングス代表取締役会長
米軍統治下の那覇市で生まれた糸数氏
ECサイトや郊外型のショッピングセンターに押され、地方百貨店が苦戦を強いられる中、「アジアの中の沖縄」の特性を生かした新しい百貨店づくりに挑むリウボウグループ会長の糸数剛一氏。戦後の米軍統治下にあった沖縄、学生時代を過ごした東京、海外で培ったビジネス経験――これらの要素が掛け合わさり、独特の視点と感性で沖縄経済の未来を見据える。後編では糸数氏のこれまでの歩みと人物像に迫る。
■米軍統治下の沖縄生まれ
「僕は小さいころから海外ばかりに目が向いていた」――糸数氏のDNAでもある海外志向は、生まれた環境の影響が大きい。つまりアメリカの影響だ。同氏によると、沖縄にはいま三つの世代が存在している。戦前・戦中を知っている第一世代、戦後生まれの第二世代、そして復帰後の第三世代である。「僕が生まれた時は戦争は終わっていたけれど、まだ戦中戦後の雰囲気をかなり残してる時代で、アメリカ色が無茶苦茶強かった。マッカーサーみたいな人がまだ沖縄にもいて、強烈に沖縄を統治している時代に生まれたんですよ。ただし言葉は日本語の教育を受けた」。
一方、第一世代である糸数氏の両親は戦前から沖縄で日本の教育を受けていたが、戦争で大変な目にあって生き残り、その後は琉球政府と米軍統治下という激動の時代を生きてきた世代である。「父親は保険会社、母親は銀行。クリスマスパーティーやら何やら若いころの写真がいっぱいあるんですけど、上司は全部アメリカ人です。アメリカのやり方・考え方で、あの世代はほとんどが英語を話せますよ」と語る糸数氏は、アメリカに囲まれて育っていた。
1950年代のリウボウ(写真提供 : リウボウ )
■パスポートを持って東京へ
復帰1年前の1971年、まだ小学生だった糸数少年は、親の仕事の都合で東京の学校に編入した。6年生の時だった。復帰前なので当然、東京にはパスポートを持って外国人として入った。一番驚いたのは日本円だ。「これ使えるの? 色がついてるおもちゃの紙幣じゃないの? 5円玉に穴があいてるけど大丈夫?」と子供心に心配したという。「これ本当の話なんですよ、子供だから純粋に。だけど色がついてるからやっぱりすごく嬉しくて『いいよなあ』と」。
食べ物に関しても、沖縄で普及していたアメリカ発のアイスクリーム、ブルーシールやボリュームあふれるステーキなどが糸数少年の基準であった。当時はアイスキャンディやお菓子など、アメリカの物がいいもので、日本の物は安かろう悪かろうとされていた。
現在のブルーシール(写真は中城パーキングエリア店
■沖縄の変化を目の当たりに
編入した東京の学校では、公立校とはいえ進学校さながらの高い教育水準に面食らう。「それが逆に僕にとっては非常に良かったんですけどね」と今だからこそ笑うが、父親が意識してそこに住んだのではないかと思うくらい、勉強熱心な地域の学校だった。のんびりした沖縄の学校からいきなり真逆の環境に放り込まれた少年は、勉強に励む習慣をそこで身に付けたという。
結局、東京には大学を卒業するまでいた。「社会人になるまでずっと東京だったので、実は親しい友達は東京にしかいない」と苦笑する糸数氏だが、学生時代は毎年夏に沖縄に里帰りすることで、沖縄の変化を東京から見続けていたと述懐する。目の当たりにしたのは、どんどん豊かになり、どんどん日本化が進んでいく沖縄だった。東京にいた10年余りで自身も少なからず日本化したはずだが、沖縄の日本化はもっと顕著だったに違いない。
■琉球人としてのDNA
米軍統治下で子供時代を過ごし、東京で学生生活を送り、返還後の沖縄を見続けてきた糸数氏。グローバル体質が培われたのはそういった第二世代の事情に加え、好奇心旺盛な元来の性格や、王国時代から外に目を向けてきた琉球人としてのDNAも大きいのではないかと思う。その証拠に「まさかの時には親戚がいるので死ぬ事はないだろう」と、学生時代にブラジルに移民することも考えたという。
就職してからは、一時期フィリピンで暮らしたこともある。銀行を辞めてタイに行こうと思っていた矢先、立ち寄ったフィリピンにいきなり夢中になった。理由は小さい頃の沖縄にそっくりだったためだ。「ものすごい郷愁感たっぷりでね。思っていたよりも治安は良くない時代でしたけど、すごく活気があって。人はいっぱいいるわ、危ないわ、いい加減だわ、優しいわで。だから自分にぴったりだなと思いました」。持ち前の好奇心が頭をもたげ、フィリピン共産党(NPA)の縄張りに足を踏み入れ怖い思いもした。フィリピン生活は2年ちょっとで切り上げたが、糸数氏の中に流れる琉球人の血が騒いだ時代だったのかもしれない。
ちなみに日本人の海外移住の歴史をひもとけば、日系移民には100年以上の歴史があり、戦前戦後を通じ、世界に移民したウチナーンチュ(沖縄出身の人)は40万人を超えている。もとはといえば貧しいが故に世界に出稼ぎに出ていったのが始まりだが、移民として世界各国に根を張り子孫を築いてきた歴史はまぎれもない事実。琉球人のDNAは、ハワイやブラジルなど世界中でいまも連綿と受け継がれている。
糸数氏が暮らしたことのあるフィリピン(写真はマニラ首都圏)
■ロサンゼルスにあった昔の沖縄
少し話は飛ぶが、糸数氏の思い出に残るもう一つのアメリカ体験が米国ファミリーマートの時代だ。株式会社ファミリーマートから、米国社の副社長として営業・商品開発を全部見てくれと言われた。新しいことに興味がある同氏は「じゃあ是非行かせてください」と2007年1月、ロサンゼルスに赴任する。けれども、やはり視察で行くのと住むのとでは全く違う。住み始めてすぐ、自分が小さい頃の沖縄の雰囲気にそっくりだと感じた。「スーパーに入ったら僕が子供の頃に食べていた物がまだいっぱい並んでるんですよ。『これは懐かしい!』と」。アメリカに来たという感覚はなく、昔の沖縄に戻ったという感覚だったそうだ。よく考えたら沖縄に戻ったのではなくて、昔の沖縄には普通にアメリカがあった。自分はそんなアメリカを経験している世代だということを、改めて認識するきっかけになった。
沖縄のファミリーマート+リウボウ泉崎店
■沖縄スタイル=アメリカ
丸3年過ごしたアメリカには相当触発された。「フィリピンはフィリピンですごかったけど、アメリカはアメリカでなぜか自分のスタイルに合った」。基本的なディスカッションの進め方、判断基準や責任の負い方など、全くストレスを感じなかったという。水が合ったのは、米国社会のフェアな実力主義という点だろう。糸数氏が例として挙げたのが、社員全員と実施する毎年の給与交渉だ。「実績に基づいてやるので、だめな人がぐちぐち言う事は全くないですね。ただ、実績を出す人はものすごく要求をしてきます。それをどうコントロールするかというのもまた社長の能力の一つでした」。
人によって考え方や進め方で異なることは多かったが、人と違うことが好きな糸数氏は、いつも遅くまで皆と膝を詰め、とことん話し合った。「だからあの3年間は非常に意義があった」という。優秀なインド系アメリカ人には「ミスター・イトカズは自分達とビジネスのスタイルが同じだ」と言われ、自分自身の個性が半分、残り半分は沖縄のスタイルでやっているからだ、と気がついた。だから帰国後、沖縄ファミリーマートに戻ってからは社員に「自信をつけろ。グローバルスタンダードは沖縄なんだ」と言い続けたという。アメリカから送られてきた『優秀なボスに贈られるトロフィー』は、いまも社長室に飾ってある。
■結局は「どんな人か」が大事
流通・小売り業界での仕事に熱中し、気づけば30年間走り続けてきた糸数氏。沖縄に似ているフィリピン、沖縄流が通用するアメリカでビジネス体験を積み、グローバルな沖縄人に磨きをかけてきた。「いまでもアメリカは参考になるし、勉強になる国」だという。創造的なことはアメリカから始まり、新しいコンセプトが生まれるのもアメリカからだからである。ただし「参考にはするが真似はしない」とキッパリ。「自分たちはどうするか?」それが一番重要だと考えている。人を見るときにも大切にするのは「どんな人か?どのくらいやる気と自我があるか?」という本質で、日本社会のルールには縛られない。
好奇心旺盛、スピード感、世界中の人・モノ・事への飽くなき関心――糸数氏を表すとしたらこんな表現が思いつく。飄々とした沖縄人の香りをふりまきつつ、グローバルなモノの考え方、人生の経験値の高さで、一気に物事を進め、走りながら考えるタイプの経営者である。かつて沖縄の変化を東京から目の当たりにした少年は、いまリウボウと沖縄を自らリードしている。 (文・写真 久保田久美)
<糸数剛一氏プロフィール>
1959年5月生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、沖縄銀行入行。その後、自身で事業を興し、1988年に沖縄ファミリーマート入社、98年に取締役営業部長に就任。開発部長兼総合企画室長、常務取締役就任、専務取締役を経て2007年から2009年にかけて株式会社ファミリーマートに出向し、米ファミリーマート社の社長兼CEOに就任。その後、2010年5月に株式会社沖縄ファミリーマートの代表取締役社長。2013年5月には株式会社リウボウホールディングス代表取締役社長、2016年5月に同社代表取締役会長に就任。 人生における座右の銘は「悔いのない人生」、仕事では「着眼大局、着手小局」。休みの日はほとんどの時間を奥様とショッピングや外食等で過ごすという愛妻家。また、酵素玄米や酵素青汁のほか、1日1回の有酸素運動や軽い筋トレなど健康管理も怠らない。
<筆者プロフィール>
久保田久美
海外在住22年。1997年より共同通信社の子会社(株)エヌ・エヌ・エーのフィリピン版編集長を経て、香港、EU、オーストラリア、シンガポールにて同社現地法人の経営に従事。2018年に退職し、現在はバンコクを拠点にフリーランスのライター、編集者、翻訳家として活動中。