一途に一隅を照らす  宇治園顧問・中村剛氏

一途に一隅を照らす  宇治園顧問・中村剛氏

インタビュー

2020.09.04



一途に一隅を照らす

宇治園顧問・中村剛氏


 大阪の中心地、心斎橋商店街に本店を構える茶販売の専門店「宇治園」は今年創業151年を迎えた。日本の伝統的な商材ともいえる「茶」の商売を代々受け継ぎ、戦前戦後の数々の経済危機を経て今もなお、変化加速する小売業界のまっただ中をひた走る。事業の存続は、人々の暮らしの変化を捉え、日常の「お茶の時間」に少しずつ新味をもたらし続けた実践の証でもある。

 そんな宇治園で、創業以来貫く「茶一筋」の逸品勝負から「茶一途」へと、“こだわり“の枠を豪快に引き伸ばし、多彩な商品開発をかなえた経営者がいる。2004年に代表取締役に就き、今年7月、還暦を機に会長職を退いた中村剛さん(60)だ。

 老舗の看板の継承にも、茶の文化を受け継ぐ使命にも、気負いはない。原動力は、自分自身を変えてきた実体験だ。
 かつて、同級生から嫌煙されるような素行や人付き合いの「苦手」を克服した経験がある。社会人になってからは、道徳的な内面と行動を結びつける自己革新の手助けをしてくれた師匠との出会いに救われた。一筋縄ではいかない精神面の軌道修正を繰り返し、「人の5倍働く」努力を掛け合わせた上に、老舗企業のバトンが次代につながった。

 「粗にして野だが卑ではない」。言動が雑で荒々しくても、決して卑しい態度や行いをとらない___。中村さんは元国鉄総裁の石田礼助氏がモットーとしたこの言葉を座右の銘にあげる。石田氏は戦後、汚職や政治的癒着などで困難と言われた国鉄改革に民間の立場から堂々と立ち向かい、公のために尽くした気骨の人。

 中村さんは、その志のような突破力をしたためつつも、一服の茶のように場を和ませ、良薬のように人を前向きに、気持ちの切り替えを後押しする自然体なリーダー。変革をいとわない宇治園の社風の源泉にもなった。

 それなのに、還暦を迎えた自身を振り返って、日常の善悪の行いを帳簿につけてもらうと、きっぱり「債務超過」のマイナス評価をつける。「人のためだと思ってやっているつもりでも、結局自己満足でやっていたり、我欲で生活していると感じることばかり。こんなんだから、収支を合わせるのはいつだって無理やね」と反省しきり。そんな「一途」をつくる人の、嘘のない言葉に、知らずのうちに多くの人が引きつけられ、心動かされている。

7月に宇治園の会長職を退任した中村剛さん。「お茶の商売自体ずっと続いてきているから、経営する人くらいはどんどん変えて新しいことにチャレンジしないと、のれんは守れない」と語る=8月31日、宇治園本店

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“俺の過去をだれも知らない、自分を変えるチャンスだ”


 宇治園の創業家の親族にあたる中村さんの父親は、大阪で本家からのれん分けされたお茶屋を経営していた。家族の住まいは、日本最大の最貧地域、遊郭や暴力団組織、浮浪者など治安の悪さで知られる西成区内にあった。「都会で立地が良くて、その割に安くて。生活水準は低いけど、今でも大好きな街」と地域への愛着を語る。

 少年期の中村さんは小学校6年生で身長は175センチ、体格もよく、遊び相手は中学の上級生ばかり。登校前に自宅に“子分“が迎えにくるような、いわば非行グループの番長的存在。外見だけで怖がられ、近づきにくい威風があったという。

中学3年の修学旅行の集合写真で1人だけ黄色のカーディガンを着るほど、“浮いた存在“だった中学時代。

 中3の夏のある日、仲が良いと思っていた仲間から、陰で除け者にされてい ることに気がづく。「それまでだったらどつき回しているんだけど、その時は裏切られたように寂しくなって。なんや自分が情けない気持ちになってな」。

 その時ふと、小学6年の道徳の授業で、担任の先生がクラスの皆に投げかけた言葉が脳裏によみがえった。「お前ら、ニックネームはあるか」。ニック ネームで呼ばれるのは、周りがその人に親みを感じているから。暗に、ただ1 人、愛称などなかった中村少年に向けた「好かれる人になりなさい」という諫めだと、知らんふりをしながら、そう感じ取っていた。

 「そうだ、今日から俺はニックネームで呼ばれるような人になってやろう」。友達の裏切りに遭って塞ぎ込んだ内心に、そんな決意が芽生えた。決め たことは意地を張って貫こうとする性格。幸い、進学した私立の男子高校には同じ中学の同級生はいなかった。

 「俺の過去をだれも知らない。自分を変えるチャンスだと思った」。態度や服装を改め、みなぎるエネルギーをラグビーのクラブ活動で大いに発散した。大学では女性にモテたい一心でサーフィンを覚え、硬派の殻を思い切り破っていく。苦手意識をむしろ得意に変えた、「自分形成の時期だった」と振り返る。学生時代に得た「ジャイアン」のニックネームは、60になった今でも特別な愛称だ。

高校ではラグビー部に所属。身体の大きさを生かしてフォワードで活躍した(左上)。中学時代の威風をやや引きずりながらも、仲間の輪の中心で、好かれる人になろうと努力した。

硬派の殻を破った大学時代。様々なアクティビティーに挑戦し、自由を謳歌した。


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“人生の師は2人。泰弘さんと、綿貫先生に出会えた”


 京都で明治2年に創業した「宇治園」は、お茶を買いたい問屋と、売りたい生産者を行き来して注文を受け渡しする御用聞きの商売から始まった。昭和に入ってからは、茶を再加工する工場を立ち上げ、小売りを手がけるようになった。

 1941年(昭和16年)に大阪に移転し、ここから「宇治園」の屋号がスタートする。同じ小売でも、生産者から直接消費者に販売するという、当時では新しい流通形態を伴った画期的な進出だったという。

昭和30年代の宇治園の様子。上段右から2人目は中村さんの母・輝代さん。

昭和40年ごろの心斎橋本店。

 創業者の重村源兵衛から連なる重村家を中心に、家族経営が続いてきた。中村さんが宇治園で勤めるようになったのは、大学を卒業してすぐのこと。親が営む分家の家業を継ぐために、本家の店舗に「丁稚奉公」で入ったところから、中村さんの「自己革新、第2幕」が始まる。

 そこで、人生の師ともいえる重村泰弘さんとの「再会」があった。仕事への向き合い方、人としてのあり方とは何かという思索に、意識を向けるきっかけを与えてくれた。

 泰弘さんは中村さんの母方の親族にあたり、親子ほど歳が離れている。幼少期から、お年玉を期待して訪れる重村家で、二人はよく顔を合わせていた。「行くたびに、偉そうに『小遣いせびりに来たんやろ』と言ういけすかない奴。嫌でたまらなくて、親戚で一番苦手な大人だった」。

 ところが、職場を共にすることになって、久しぶりに会った当時専務の泰弘さんは「人間が全く変わっていた」。一人の人が180度変わることがあるのかと、心底驚いたという。

入社6年目、20代の頃の中村さん(左)と、当時専務だった重村泰弘さん。

 要因を探ると、泰弘さんにも転機が訪れていた。道徳的精神を経営に生かす「道徳経済一体思想(以下: 道経)」の学びによるものだった。身近な人の劇的な変化に触れ、以来、中村さんも共に学ぶようになった。

 国や時代を越えた、人と社会の「真理」とも言える思想。会社の人材育成の柱に据えられたその教えに中村さんは素直に向き合った。しかし、実行に移すのは容易ではない。日々の仕事と暮らしの中で、心持ちと行いに矛盾はないか、照らし合わせる習慣はできたものの、仕事に対する姿勢の変化は追いつかない。

 「一生懸命さのあまり、腕っぷしの強さを見せつけるような態度で、周りの社員にとっては鬼のような時期が長く続いた」と明かす。自分だけでなく他人にも厳しく当たる性質は、なかなか変えられなかったという。

 それでも、年齢と経験を重ねるうち、対話の角は丸くなっていった。「怒りをぶつけるやり方では相手の心には届かない。大阪人らしく、笑いからでしか、人の関わりは成立しないんだって、ようやく思えるようになった」と話す。人や組織の「品性」や「三方よし」の事業を追求していく学びを続けたからこその体得だった。

 師である泰弘さんが、中村さんにもたらしたもう一つの大切な縁がある。日本を代表する芸術家の綿貫宏介さんとの出会いだ。宇治園の商品やロゴなどのデザインを手がけ、その作品の熱心なファンが数多くいる。

 古い文字の一つ一つ、意味や謂われを紐解き、わかりやすく説明してくれる。そこに込められた教訓が画やデザインに現れると、まるで説法を受けているような厳かな気持ちになる。「世界中が認める芸術家を目の前にして、こんな人生を送りたいと願う。人間性の魅力、憧れの存在が綿貫先生」と語る。

中村さんが「生き方そのものが憧れ」と語る綿貫宏介先生(右)との語らいは、大切な時間。

綿貫先生の手がける商品デザインは、革新重ねる宇治園らしい和装とモダンの絶妙な調和が魅力(宇治園HPより) 。


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“生業は大切にするけど、それ以外のこともやらなければ”


 中村さんが社長に就任したのは2004年。会社は80〜90年代の大型商業施設への多店舗展開や、別会社による土産品開発など事業拡大を進めてきた一方で、お茶を取り巻く環境は大きく変わっていた。

 「危機感は40年前からあった」と中村さんはいう。
本店のある通りは全国でも指折りの活気ある商店街。店の両隣には宝石店や衣料店、向いは百貨店の大丸で、恵まれた立地にある。だが、勤めはじめて間もない頃のこと。店舗向かいの柱にもたれながら行き交う人の波を観察して気がついた。

「うちの店にはだれも見向きもしない」。

 この通りを歩くお客さんが全員お店に入ってくれて、1円でも買い物してくれていたらなんぼの売り上げになるだろうか。買いたい、触りたいと思わせるには、喜んでもらうためにはどうすればいいか、ひたすら思い巡らせていた。

 ペットボトルの緑茶飲料の普及に伴って、国内の茶葉の消費量と支出額は減少傾向が続いている。茶専門店にとって、競合相手は同業他社からコンビニや量販店、スーパー、自販機へと移り変わった。

 消費ではコーヒーや炭酸飲料などの需要に押され、市場低迷の課題が浮き彫りになってきた。「業界は長年、ゆでがえる状態だった。ぬるま湯に浸かりきっていて、急激に熱くなっていたのにみんな気づかず、たくさんの店が潰れてしまった」。

 宇治園にとっても、中村さんまで6代にわたって守ってきた「茶一筋」の理念が貫けない状況がどんどん広がっていた。急須で飲むお茶が変わらず支持されるはずだと静観を貫く人たちが少なくない中で、中村さんは日本のお茶の文化をつなぎ、のれんを守る役割を意識していた。

 「歴史ある会社は革新の連続。生業は大切にするけど、それ以外のこともやっていかなければならない」。任された経営の舵取りで、“茶一筋“から、“茶一途“へと、はっきり方向性を見定めた。具体的な商品開発を通して社員と「一途」の認識を共有することが、中村さんの使命になった。

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“お客様が喜ぶためなら、何でもしよう”


 市場の急速な変化に向き合う経営の現実は切実だが、中村さんの手にかかれば、変革に向けたは動きはいつでも社を挙げた“おもしろい試み“へと変換された。

 中村さんが本店の店長を務めていた29年前、布石となるチャレンジがあった。抹茶ソフトクリームの販売だ。まだ、抹茶を使ったアイスクリームが一般的ではなかった時代。当時入社したてだった三浦貴茂さんは、中村さんの実行力と結びついたアイデアの勢いを目の当たりにしていた。

 中村さんが不意に「ソフトクリームを売ろう」と言い出したのは12月の寒い季節。三浦さんは急いで中古の機械を調達してきたが、一連式のもので一つの味しか作れない。抹茶を茶筅で溶いてソフトクリームに混ぜて作り、急かされるままに店先で売り出した。

 孫を連れたお客さんに「子どもが食べられるバニラはないんか」と言われても応えられない。寒くて買う人もいない。だが、売れ残った抹茶ソフトを無料で配り始めると、途端に長蛇の列ができた。

 「おもしろがって、お客のフリして一番後ろのおばちゃんに、『何で並んでいるの?』って聞いてみたら『知らん』という」。店舗スタッフみんなと、お客さんを並ばせる楽しみ、ワクワク感をつかんだ瞬間だった。

 商品やイベントに興味を持たせられたら、もっと行列ができるかもしれない。次々とアイデアが溢れ出た。「お客さんを喜ばせることなら何でもしよう」。中村さんの、変わらない真っ直ぐなこの思いが、その後の“茶一途“を推し進める底力になった。

 「俺は言うだけで何にもできないのに、これしてくれ、あれしてくれと頼んでばっかり。“人たらし“っていうのかな、それが俺の得意技」と笑う中村さん。支えてくれる社員への感謝の念は、人一倍深い。

 唐突に思えるような提案でも、社長や専務は寛容に受け止め、何でもやらせてくれた。アイデアを受け止め、知恵を絞って実現に動くのはいつも「周りのスタッフだった」からだ。「道経の経営者としての能力は『債務超過』だけど、『周りの人に恵まれている度数』でいえば、どんな大物経営者にも負けない」と胸を張った。

「同じ年格好の人たちの活躍を見ていると、悔しくてたまらない。大器晩成を信じて、今度こそ、起死回生狙ってやってやろうといつでも思っている」と語る中村さん=8月31日、宇治園本店

 「トンネルやさんみたいな仕事をしはるなって思います。『苦難』という山が目の前にあっても、ダイナマイトを使って穴を開けていくように豪快にいきはる」。傍らにいる三浦さんは、中村さんの仕事ぶりをこう表現する。

 相手の職位や年齢の上下に関係なく、「その人の持っている人間力を信じてくれる。なんかわからない間に明確に道筋をつけてくれるから、社員はついていきやすい。そこに結果が伴うと、個人個人が楽しくなってきて、徐々にテンションが上がっていって。最初は驚くようなことでも、みんな、いろんなことが当たり前のようにできるようになった」と、信頼の思いを込める。

 29年前に突拍子もなく始まった抹茶のソフトクリームの販売は、本店の看板商品の一つとなり、今や子どもでも抹茶アイスを好んで食べるようになった。何より、抹茶味はソフトクリーム商品として一般市場に定着し、外国客にも人気になった。

 「これだけ抹茶ソフトが認知されるようになったのは、やっぱり、中村さんのやり続ける努力があったからこそではないか」。中村さんの大胆かつ地道な“トンネル工事“が、宇治園の好奇心とやる気の土壌を掘り起こし、改革の芽を育てた。一番近くにいた三浦さんはそう実感している。

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“うちの機動力と発想力はだれにも真似できない”


「業界の異端児」と言われる中村さんや宇治園の存在感は、商品展開のユニークさにも見て取れる。

 綿貫氏デザインの小佳女(おかめ)と火男(ひょっとこ)をキャラクターにしたお茶商品のほか、茶葉を使った和洋スイーツやカフェメニューなどを展開。

 日本茶の文化を世界に伝えようと開発した高級茶のボトリングティー「ゴッタス デ 日本茶 エスペシアル 玉露(しずく)」では、急須で淹れたお茶の美味しさを特殊な製法で表現。G7伊勢志摩サミットで各国首脳の宿泊部屋に提供するなど、「日本のお茶」の商品イメージを自在に広げた。

2016年の「G7伊勢志摩サミット」の参加7か国首脳の宿泊ルームに提供された高級ボトリングティー。フォーマルな場で愉しめる緑茶飲料として提案し好評を得た。(宇治園HPより)

「僕がやっているものは全部だれかの真似をしている。売れているところを見に行って学んで、そこにアレンジを加えてオリジナリティを出すのが得意」。すでに支持を得ている商品をベースに、+αのセンスで新たな価値を創造していく。

 「基本はむちゃくちゃ真似しているけど、うちの機動力と発想力はだれにも真似できない。真似されたところで、追随なんてできない」と自信をのぞかせる。

多種多様な商品が並ぶ本店の売り場。中村さんの提案した商品アイデアの数々が、スタッフの協力によって形になった=8月31日、宇治園本店

 2006年には、バレンタインチョコレートの開発などスイーツ製造事業に本格参入した。抹茶やお茶に合うスイーツの提案だ。今や、宇治園は「生チョコの」「ティラミスの」などの枕詞でも連想される。お茶のイメージをしっかりまといつつ、多彩な顔をもてるようになった。
 
 かと言って、中村さんは特段、スイーツ業界に真っ向勝負を仕掛けているつもりもないという。「みんな奇抜だというけれど、変わったことをしているつもりもないし、俺にとっては普通の出来事。みんなが興味持つことを開発しようと思っているだけ」。そう語る心理には、中村さんが好む千利休のこの禅のことばがある。

「 茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし」

 お茶も経営も中村さんにとっては決して特別なものではなく、普段の生活の延長線上にある。「お客様に喜んでもらいたい」というただ一点に、真摯に向き合っているからこそ生まれる商品。ここを起点とするものづくりにおいては、遠慮もためらいも不要だという、中村さん自身の価値観の表れでもある。

中村さんが大切にする、茶の湯の作法の書物「南方録」に記された千利休の言葉。質素で平凡な暮らし、自然体でいることの中に、物事の大切な真理があるという教えに、学ぶことが多いという。

 宇治園で働き始めた20代の頃の自分を振り返ると、「生まれ育った環境を大事にしたい」「宇治園を多くの人に知ってもらいたい」との思いがあった。

「自分の家族の会社を大きくしようなどと思っていたら腕を振るえなかったかもしれない。自分のためじゃない、無私の心で誰かのために働くという原点。自分がないところだから、がむしゃらにできた」と反芻する。

 「僕の仕事は人様のお役に立つこと。それを達成するために今、たまたまお茶屋をやっている。これしかない。せやのに、人は自分のことが出てきてしまう。これだけやっているのに、儲けが少ないとか思うてしまったり。だから、軌道修正が必要になってくる」。当たり前のことを当たり前にやることの難しさもまた、中村さんにとって、実感こもる内観のテーマであり続ける。

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“持っているものを手放して、新しいものをつかみにいく”


 中村さんは今年7月、宇治園からの引退を決めた。自ら65歳ごろを想定していた退任時期から5年も早い。新型コロナウィルスの影響による業績の低迷が長引く中、従業員への影響が出る前に真っ先に身を切る改革に動いた。

 「100年に1回の危機だっていうけど、絶対そんなことない。150年に1回や」と苦笑いする。会長の中村さんだけではなく、顧問の泰弘さんも、ともに退任に道を敷いた。

 「コロナだからしゃあない。右手で物をつかもうとする時に、何か持ったままだとつかめない。宇治園にとって、その手の中の荷物が俺や。持っているものは捨てて、新しいものをつかみにいかないと」。

「会社にとって売り上げとは、銭(ぜに)儲けというよりも、お客さんにどれだけ支持されたかを表すもの。どうにかお客さんのハートをつかみたい」と話す中村さん=8月31日、宇治園本店

 「未練たらたらやけど、革新のためだから」と前置きしつつ、今後は経営には立ち入らず、子会社ムーランの代表取締役の立場から、宇治園の下支えに徹する覚悟をあえて強調する。奮い立たせるような言葉とは裏腹に、現実の内心は引き裂かれるような思いでいっぱいだ。

 一方で、今回のパンデミックへの対応を巡っては、経営者として「修行の不足」を突きつけられたという。2月の感染拡大期から、第1派が収束に向かっていた6月頃までを振り返ると「何も起きないことを期待して静観して、実は何もしていなかった」ことに唖然とした。

 夏には感染拡大が落ち着き、景気のV字回復で内需の盛り上がりはコロナ以前を上回るかもしれない、と妄想していたほど、楽観があった。「そこが人間ができてない証拠やな」と肩を落とす。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」のことわざの“本当の意味“が思い浮かんだ。「当てにならない期待をしないこと。まさにそれ。もう期待はせんとこ。ようやく切り替えられた」と前を向く。政府の支援策として、様々な資金調達の手段も出てきた。チャンスと捉え、次なる秘策に打って出るための軍資金に生かしていく。

 「『禍転じて福と為す』に変えていかなあかんな。自分の仕事はなんだったんだろうなと見つめ直して、さぁ、もういっぺんって感じや」。豪快な笑いがまた、戻ってきた。 (了)

Polestar Okinawa Gateway 編集ディレクター・ライター/座安あきの